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漁服記(太宰治)の考察:
人はなぜ生きるのでしょうか?
これは太宰治の漁服記のテーマである。
主人公の女の子(スワ)「なんでお父さんは生きているの?」
父「わからない」
スワ「ならいっそのこと死んだほうがいい」
という文です。
この物語ではぼくが読む限りスワはいやいやながら死んだようにしか見えない。
そして、お父さんの発言をきっかけに死ぬことが避けられない事態になったようにも読み取れる
それはなぜなのだろうか?
人間が死にたくないのに死ぬしかないといった場面はどのようなものでしょうか?
1、他者に殺される場合
2、事故
この2つしか思いつかない。
そして今回の場合スワが死んだ理由は前者であろう。
スワは父親に殺されたのだ。人間が生きるということはどのようなことでしょう?
前にも書いたかもしれないがそれは
体が正常に機能していること(生きていること)と精神が正常に機能していること(生きていること)
これを両立しなければいけないと思う。
そして、この物語の場合スワはお父さんに精神をいわば殺されたから結果的に死んだのである
(それが事実上、自殺であってもこれは他殺なのである)
もっと具体的に考察していくと。
いわば価値観、狂信的に信じていたものの破壊が行われたのである
これがお父さんの「わからない」という一語にあると考察する。
それではスワのその信じていたものとは何なのだろうか?
それは具体的にはよくわからないが、この山奥という閉鎖的な場所から
とても小さく脆いものだったというのがわかる。
ということは普段からのお父さんの発言はいつスワの精神を崩壊させてもおかしくないものだったのである。
言葉で人は殺せるものです。

スワはお父さんの生きている意味を予測していてそれが絶対にあっていると思っていた
そしてそれがスワ自身の生きる意味でもあり、それがあるからこそ人間は生きることができる
これがスワの狂信的に信じていらことだったのである。

そしてある日どうしてお父さんは生きているのか?と訪ねる(ほとんど確認の意味合いで)とまさかの
「わからない」という言葉が返ってきたのである。このとき物語の描写ではスワがススキを噛み切るシーン
そのあとに「阿保阿保」というシーン。この時点でスワは精神を殺されたのである。
寄ってこの後のスワの行動(黒い飯を食ったり、薪を上げたり、お洒落をしたり)これはもう死ぬ前にやっておきたかった
ことになります。
飯を食うという人間の本能、自分の信じていた「わからない」という発言をするまえの好きだったお父さんを呼ぶための薪、
蛇になるための正装ということです。
そして最後にスワが「おど」とお父さんのことを呼び滝つぼに落ちるシーン
なぜ最後にお父さんの名前を呼んだかというと好きだったお父さんと暮らす時間のほうが真実が分かってからの時間より
圧倒的に長かったので反射的に出た言葉だと思う。
実際、死ぬ直前では言葉は反射的にしか出ないのである。

まとめるとスワは今まで信じ、積み上げてきた価値観がお父さんの一言で一気に崩れ、
人間としては”死ぬ”という選択肢しかなくなり強制的に死んだのである。
そこには生まれ変わり蛇になり新たな人生を歩むという一種の安心感と希望も少なからずあったかもしれない。